Amoris laetitia と聖マリア・ミカエラ
イグナチオ教会とイエズス会社会司牧センター共催の「愛の喜びを読むために~その構造と神学~」というセミナーに参加した。「愛の喜び」は昨年出された教皇フランシスコの使徒的勧告である。アルゼンチンで神学生をしていたときの修道院の院長がフランシスコ教皇だったというアイダル・ホアン神父がその時の思い出を挿みながら、柔らかく温かくそしてとても強いフランシスコ教皇のメッセージを想像しながら解説してくださった。
「だれも排除してはいけない。どの人でも教会共同体の中で、自分にふさわしい参加の仕方を見出すように手伝わなければならない。どの人でも無償で、無条件で、自分がそれを頂くに値しない慈悲の対象であることを感じるように手伝わなければならない。だれも取り消しがつかない形で断罪されるべきではない。そんな断罪は福音の論理に合わない。この断言はどんな状況におかれている人についてもあてはまるものである。」(n.297)
この使徒的勧告のキーワードは4つあるという。
①一つ目は「慈しみ」である。教皇の慈しみへの姿勢は「ゆるしながら選ぶ」「人を罪に定めない」「リスクを伴う」の3つであるという。「…慈しみの目で扱うとき、早まった判断や厳しすぎる裁きなどを避けるべきである。もちろん、それを実行すれば、わたしたちの生活は見事にも面倒なことに巻き込まれるだろうが…」(n.308)
②二つ目は「人が置かれている場から出発する」
「客観的に見て罪の状態と思われる条件の中にいる人は、様々な制約や情状配慮要素のため、主観的に罪科が無いことがありうる。その人は神の恩恵を受けている状態であり、教会の助けを得て恩恵と愛徳のうちに成長しつづけることがありうる。信仰上の良心的な識別に助けられて人は厳戒の中でも神の呼びかけに応答し、成長する可能な道を見出す。どんな問題でも、白か黒かというアプローチしかできないと、恵みと成長への道が閉じられてしまい、神に栄光を帰する聖性への道をあきらめることになるでしょう…(n.305)」
③三つ目は「親近感」
映像や文字からわかること、時間を決めて時々会う関係だけでは見えないことが、一緒に生活すると見えてくる。アイダル神父はとても微笑ましいお話してくださった。神学生の時アルゼンチンの神学院では羊やヤギを飼っていたという。子羊が多く一匹だけどうしても全体から外れてしまう羊をかわいそうに思い、院長(現フランシスコ教皇)が一人の神学生に世話を委ねたという。彼は彼の居室で羊を飼い、彼自身も羊の匂いがするようになってしまったが羊の鳴き声ひとつで「水が欲しい」なのか「ミルクが欲しい」のかが区別がつくようになり周りを驚かせたという。2013年の使徒的勧告「福音の喜び」の中の「司牧者は羊の匂いがする」という一節を思い出させるエピソードだった。
礼拝会の創立者聖マリア・ミカエラの使徒職への姿勢も同様のものを感じる。19世紀売春をしていた女性は公的権力から、それとわかるしるしを衣服につけさせられたり、彼女たちだけを隔離する福祉が主流だった。そんな中でミカエラは自分が率先して女性たちと共に住んで、一緒に食事をしたり、余暇を楽しんだり、もちろん共に彼女たちの問題に取り組んでいた。それはそうすることによって、ひとりひとりの痛み、不安、夢、など初めて見えてくるからであり、ミカエラは彼女たちへの近さをとても大切にしていた。
社会福祉の歴史を学んでいるとセツルメント運動という時代がある。教科書などでは1884年のロンドンでバーネット夫妻によって始められたトインビーホールが最初と書かれている。セツルメント運動とはスラム街等の貧困地域に知識人が住み込み、貧困層の自覚を促すなどの社会改良運動と説明されている。ミカエラが寮に決定的に住み込み始めたのが1850年で主に傷ついた女性たちに特化した寮であったことは、歴史的に見てもとても特徴的であると感じられる
④四つ目のキーワードは「識別」。
「牧者の仕事は、識別を助ける事です。教会の教えは良心を教育しますが、良心の代わりにはなりません。」(n.33)
「変則と呼ばれている状況において特に識別は可能であり、必要でもある・・・変則と呼ばれている状況におかれているすべての者に関しては人を大罪の状態にあるとはもはや言えない。」(n.301)
「離婚・再婚した人々は助けが必要です。この助けは秘跡の助けを含む場合もある。ご聖体は完全さへの褒賞ではなく、弱さへの薬であり、栄養である。」(n.38)
「私たちは防御的な姿勢をもって、真の幸せに至る道を示すことなく、現代社会の中での生活を単純に悪と決めつけることなくで、司牧のエネルギーを無駄に使っています。」(n.38)
「キリスト教徒として、私たちは、現代の感受性に抵抗するのを単に避けようとするために、あるいは流行に乗りたいという欲求から、あるいは、人間的、道徳的な過ちに直面しての無力感から、結婚を護るのを止めることはできません。現在の害悪を、あたかも変えることが出来るかのように、単に批判するだけでは意味がない。権威によって規則を課そうとしても効果はない。私たちが必要としているのは、結婚と家庭を選ぶ理由と動機を与えることができるように、賢明で寛大な努力をすること、そして、そうした方向で、男性たち、女性たちを、神の恩寵によりよく応えることが出来るように助ける事です。」(n.35)
さいごに「識別」に重きを置いている姿勢はとても革命的だという意見に共感した。
私も礼拝会の総本部のシスターに「日本は一緒に住むという形の使徒職が今はないね。」とサラッと言われた体験を思い出した。非常に個人主義がすすんでいる日本の若い方々のし好と超高齢化社会という現実の中で、むしろ今のスタイルが現代の日本社会の現実にあっているのだろうと思う。しかし聖マリア・ミカエラの時代も「Amoris laetitia」に書かれた現代も、背景の色は違うけどどこか似ているなあと感じる。流れのはやい今だからこそ、ひとりひとりの識別が大切になってくる。
(Amoris laetitiaの仮訳は南条俊二・J・マシア)